通信は現役および卒業生のご家族へお送りしているものです(不定期)。
92年3月から今日まで124号(10年3月現在)を数えています。


昼夜逆転について

生後1年間の睡眠と覚醒を調べた研究によると、2から3カ月の内に睡眠と覚醒のリズムに大きな変化が生じます。昼と夜のパターンが確立し、昼間は起きている時間が長くなり、夜はよく眠るようになります。覚醒している時間が増えるもう一つの時期は、かなり個人差があるものの、5カ月から8カ月の間に現れるということです。
脳障害児には眠りが浅い、夜まとまった眠りがとれない等、睡眠と覚醒のリズムに問題を抱える子がいます。家族を悩ます最大の問題は昼夜逆転でしょう。
昼夜逆転してしまうお子さんには共通点があります。
・プロフィール上のレベルが低い
・病気で寝込んだりすることがきっかけになることが多い
この問題には中枢神経系の障害が関係しているのでしょう。また、生活習慣(の乱れ)も関係しています。
お子さんが昼夜逆転すれば、午前中に日光浴をさせたり、日中なるべく起きているように働きかけるなど、家族はいろいろと努力します。しかし、残念ながら、いったん逆転してしまうと元に戻すのはそう簡単なことではないようです。昼夜逆転を起こさないように普段から以下のことを心掛けてください。
・規則正しい生活を(できれば家族全員で)する
・風邪などの予防・早期回復に努める
・日中適切な運動をする
・夕方以降はお子さんが興奮するような活動を控える
お子さんが深夜に長時間泣く、騒ぐということであれば事態は深刻です。数日間続けば、睡眠不足で家族全員が疲れ果ててしまいます。そのようなときは医師の診察を受け、薬を処方してもらうことも選択肢の一つだと思います。薬はなるべく飲ませたくないと考える家族もあるようですが、睡眠薬や精神安定剤を一時的に服用することで本人も家族も楽になるのであれば、メリットの方が大きいでしょう。
あるお母さんが次のような話をしてくれました。お子さんの昼夜逆転でフラフラになっていたとき、励ましのことばよりも、できることはやっておくから寝ていてくださいというボランティアの方の配慮がうれしかったということです。なるほどと思います。
過去の事例を調べると、昼夜逆転はいつのまにか解決していたということが多いです。本人と家族になるべくストレスがかからないようにしながら、お子さんがリズムを取り戻すのをあせらずに待つという態度も大切だろうと思います。

ドッツ

算数は、親になっても、私たちを悩ますようです。親御さんからよく質問されます。
「ドッツをどう思いますか」
研究所内のスクールの授業に参加したことがあります。生徒ら(脳障害の青年たち)は電卓を使って小数の入った四則計算を学んでいました。後日、教えていたスタッフ(元数学の教師と聞きました)に「ドッツは効果があると思いますか」と率直に尋ねました。彼は次のように答えました。
「多くの脳障害児は数の世界にふれることもない。ドッツはそうした脳障害児に数の世界はこういうものであると見せることができる」

映画「レナードの朝」の原作者であるオリバー・サックス著「妻を帽子とまちがえた男」(晶文社)のなかに、いわゆる「イディオ・サバン(知恵遅れの天才)」である双子の兄弟の話が出てきます。彼らは脳障害者であり、簡単な足し算や引き算も正確にできないにもかかわらず、暦上のどの日でも即座に何曜日であるか答えることができます。サックスの観察によれば、この兄弟は二人だけに分かる秘密のゲームとして6桁の素数をやりとりしていました(このゲームは20桁!まで進んだようです、というのは20桁の素数など一般には確かめようがありません)。
ある時、二人のいるテーブルにあったマッチ箱が床へ落ちて、中身が出てしまいました。二人は散らばったマッチの本数を「百十一」と瞬時に言い当てました。「どうしてそんなに早く数えられるの?」サックスがたずねると二人はこう答えました。「数えるんじゃないですよ。百十一が見えたんです」
信じがたい話ですが、彼らには巨大な素数や百十一が(数えたり、計算するのではなくて)見えるのです。この話は、数の世界への戦略(アルゴリズム『算法』)の違いと考えることができるでしょう。私たちが紙と鉛筆で記号として処理するのと違い、この兄弟の戦略は数の世界を図像的なものとして視覚的にとらえていると思われます。
そろばんの達人は暗算の際、頭のなかにそろばんがあり(見えていて)それを使って計算するといいます。小さい子どもたちにそろばんを教えている人から興味深い話を聞きました。そろばんは左から玉を動かします(筆算は1の位、つまり右からですね)。そこでそろばんと筆算を同時期に学ぶ子は少し混乱してしまうことがあるそうです。理解が進めば、そろばんは左から、筆算は右からと区別できますが。また、そろばんはやはり子どもの方が習得が容易で、暗算の際に小さいうちから始めた子は本当に頭のなかでするが、大きくなって始めた人は指を少し動かすそうです。イメージを指を動かすことで補っているのではないかと話していました。
ドーマンならば次のようにコメントするでしょう。
「算数とはヒトの脳が行う一つの機能である」「6歳よりも1歳から学ぶ方が簡単だ」「傷ついた脳でさえもできることがなぜ健常な脳でできないのか(できるはずだ)」

双子の兄弟は別々の施設に入れられ、ある程度自立した生活が送れるようになりました。社会的な適応能力を身につけるにしたがって「数についてのあの不思議な能力を失ってしまったように思われる」とサックスは記しています。
ドーマン法に興味を持った日本の小学校の先生がドッツを試してみたという話を聞きました。1年生の算数の授業でドッツを続けたところ、生徒たちはかなりの数まで一目で分かるようになったが、通常の算数を教え始めると、ドッツの能力は消えてしまったとのことです。
数に対する特殊な戦略は別の戦略を身につけていく段階で(上手に使い分けることを学ばない限り)消えていってしまうのでしょう。
さて、日本には九九やそろばんという算数の文化があります。お子さんが学校や社会で算数や数学を学んでゆくときドッツは意味を持ち続けるでしょうか。
最後に冒頭のご質問に答えます。
「数の世界にふれる方法の一つです。楽しめるのであれば、結構なことだと思います」

ストレッチングの勧め

ストレッチングはけがの予防、疲労回復、筋肉と関節の柔軟性の向上に有効です。運動プログラムに励むお子さんの体をストレッチしてあげてください。例えば、歩きのプログラムの前後に下肢を中心にストレッチングすれば、けがの防止と疲労回復に役立つでしょう。手頃な本を一冊買うことをお勧めしますが、簡単に注意点をまとめてみます。
(注)ストレッチングは筋緊張の異常を治すものではありません。
○無理をしない
これは最も大切な原則です。お子さんが動けない場合、骨や筋肉が弱くなっていることが考えられます。入院中のお子さんの膝がPTの足の曲げ伸ばしの際折れてしまったという残念な事例もありました。無理をしないためには、反動をつけないこと(ジワーとゆっくり力を加えます)、呼吸を止めさせないこと(呼吸を止めると筋肉は硬直化します)、顔色をうかがって痛みを覚えさせないようにすること(痛みも筋肉を緊張させます)を守ってください。
○まず自分でやって要領をつかむ(関節の可動域を確認しましょう)
○なるべくからだ全般について行う
○お風呂あがりに行う
温めると筋肉は弛緩します。習慣にするためにもお風呂あがりは最適の時間です。
○ことば掛けをしながら伸ばす
ストレッチングでは伸ばした筋肉を意識することが大切です。お子さんを安心させるためにもどこの部位を伸ばしているのか、ことば掛けしましょう。コミュニケーションを図る機会にもなりますね。

*腰痛の予防にストレッチング
動けない、歩けないお子さんの介護は腰に負担をかけます。ご家族の中にも腰痛に悩む方が多いのではないでしょうか。お子さんと一緒にストレッチングをして腰痛の予防に努めてください。合わせて腹筋・背筋を鍛えるとよいでしょう。また、以下のことを心掛けることをお勧めします。
○お子さんにできることはできる限り協力してもらう
○プログラムの流れを腰の負担を軽くするという観点から見直す

パターニングは効果を持つか

パターニングは人間の移動運動の基本であるクロスパターンを触覚や固有覚を通してお子さんの脳にインプットするものです。首の左右への回旋の動きに従ってリズミカルに手足を動かします。
パターニングに関しては米医学会からの批判があります。効果が認められない上に、家庭に過度の負担をかけるというものです。ドーマン法は日本のリハビリ界でも散々な批判を受けています。友人のPTの話では、一言も教科書に載っていないということです。
パターニングには、
○リスクがない
○誰にでもできる(比較的習熟が容易です)
○子どもがいやがらない(むしろ快適でしょう)
○合理的な全身運動、ストレッチになる(筋肉や関節の拘縮をある程度防ぎます)
という評価できる点があります。
しかし、それらはパターニングを行う消極的な理由になっても、脳障害を「治す」方法として行う積極的な理由にはなりません。本質的な問題は、ヒトのクロスパターンをパターニングによってインプットできるかという点です。これは、身体的援助の圧倒的な繰り返しにより、系統発生上の学習課題を再学習できるかという問題と言い換えることができると思います。
研究所の医学チームのトップであった故ルウィンは「損傷を受けた脳がさらに高度な神経機能を達成する可能性は、損傷を受けずに残された神経細胞のなかに存在する」(E・ルウィン著、つくも幼児教室編訳『ドーマン法の基礎』風媒社、1983)と、その可能性を主張しています。確かに、脳卒中などでことばや運動能力に障害を持ってもリハビリによって(ある程度)回復が可能です。傷ついた神経細胞は通常再生しないわけで、回復するのは新たな神経ネットワークの代償機能といえます。しかし、この代償機能が反射レベルの運動にも生じるのかどうかと言う点はやはり議論の分かれるところでしょう。
ここでボイタ法やボバース法がリハビリ界で認知されている不思議さを指摘しておきたいと思います。これらの方法は「異常反射を抑制し、正常な反射を誘発する」という考え方に立っています。「正常な反射を促通する」という考えは神経系の反射レベルでの再学習の可能性を前提にしない限り成り立ちません。この点でこれらの方法はドーマン法と同じではないかと私には思えます。
私は、パターニングについて肯定的な事例に接してきました。福永さんは退院時、担当の理学療法士らから「これ以上の回復は望めません」と宣告されていました。彼のその後の回復にパターニングを始めとする研究所のプログラムが大きな役割を果たしたことは間違いありません。研究所内のコースではパターニングと同じように首を振って腹這い・高這いをする子どもたちを見ました。しかし、こうした「証拠」からパターニングは効果があると結論することはできません。その子の自然の成長かもしれないし、パターニング以外のプログラムが有効に働いたのかもしれません。科学というものは厳密なものです。有効性について科学的な結論が出るのは脳科学のさらなる進展を待たなければならないでしょう。
パターニングは効果を持つと断言することもできないし、持たないと断言することもできません。しかし私は臨床家として移動運動ができないお子さんを前にしたとき、「これから始めるしかないだろう」と思います。したがって以上の諸点をすべて親御さんに説明した上でやっていただく(過度な負担にならないように注意するべきでしょう)。そして行動主義的な観点から評価し、そのお子さんにとって効果的であるかどうかを判断する。以上が私の現在の答えです。

それは偶然なのか

当室の内部的な倫理規定の一つに、「相談者のプライバシーを守らなければならない」があります。したがって、ホームページ上に事例報告を載せる場合、以下の2点を守っています。
・個人が特定されないように十分な配慮をする。
・事前に本人またはご家族の承認を得る。

H美ちゃん(86年4月生まれ)は、現在養護学校へ通いながらプログラムを続けています。初回評価前の報告によれば、89年5月、心房中隔欠損根治手術後、原因不明のけいれん発作を起こし、植物人間状態が1ヶ月くらい続きました。その後回復しましたが、重度の脳障害が残りました。手術までの3年間の成長は順調であったとのことです。93年に体幹機能は1歳未満と診断されています。
95年8月、初回評価を行い、プログラムを開始しました。以下、ファイルから頭上ばしごのプログラムについて経過を追ってみましょう。
95/08/19 頭上ばしごのプログラム1(棒につかまり立つ)を開始する
95/08/28 ベスト5秒
95/09/28 制作を依頼していた頭上ばしご搬入
95/11/13 中間報告
「棒につかまり立つことは本当にがんばりました。30秒前後くらいから45秒、1分間とのびてくれ、目標の5分をクリアしたときは久々に泣けました」
頭上ばしごのプログラム2を開始する
96/09/09 再評価
頭上ばしごは姿勢に余裕が出てきたが、手を出す(上げる)ことはあってもバーに届くことはない。
バーを握ることを強化する補助プログラムを組む
プログラム2で最も大切なことは手が次のバーを握ることです。手を出すことが苦手なH美ちゃんの場合、結果を出すには長い年月(継続)が必要でした。記録表を見ると、97年4月から一日数トリップのうちに2,3回左手を出す日が出始めます。
97/06/19 左手がとっても上手に出た
97/06/20 足を移動させているとき気がつくと左手が次のバーにあることが3回あった
97/06/28 左手がよく出る。右手が出て左足がずりながら2回出たような気がする
97/07/03 右手を出させると左足が動く
97/07/05 右手が離れ次のバーへ行く!!
97/09/08 再評価
足が出やすいように頭上ばしごを傾斜型に改良することを指示
98/03/09 再評価
ビデオを見ると、母親の言語的援助や身体的援助が伴うものの、左手は100%自力であり、左足はもちろん、苦手であった右足も前に踏み出しており、頭上ばしごの下で歩行を開始したと判断できる。
したがって頭上ばしごのプログラム3を開始する
一般に、お子さんが新しい行動をしたとき、「偶然できたのかな」と思います。脳障害児の場合、その行動を再び繰り返すのが1,2ヶ月先になるというのもよくある話です。では、その行動を引き出す場や機会をたくさんもってみてはどうでしょうか。H美ちゃんの事例は「それは偶然ではない」と教えてくれています。
プログラムの開始から2年半、H美ちゃんとご家族のご努力に心から敬意を表します。再評価前の報告のなかで、この6ヶ月間プログラムを行って一番よかったことは何ですかの質問に「娘のがんばっている姿を見られることです」とあります。プログラム3は一段とたいへんな内容ですが、今後も笑顔を忘れずに取り組んでいただきたいと願います。

後日談があります。再評価から10日ほど経って、お母さんから電話がありました。「H美が学校で…」私はその興奮した声の調子から大発作から事故でも起きたのかと緊張しました。お母さんの話をまとめます。
子どもたちへの給食の介助が終わり、3人の先生が食事をとっていました。突然一人の先生が声も出さずに指さしたそうです。その指の先にはH美ちゃんが高さ75pくらいの棚につかまって立っている姿がありました。それはH美ちゃんが事故後、初めて一人で立った記念すべき出来事でした。

フェイディング

親御さんの願いの一つに自分の名前が読み書きできるようになって欲しいというものがあります。当室を訪れる多くの家族がドーマンの単語カードに強い関心を持っていることもそういう事情が関係しているのだと思います。しかし、名前がわかるのに必ずしもひらがなが読める必要はありません。幼稚園や保育園で、靴箱や机の名札に動物や果物のマークが付いているのを見たことはありませんか。子どもたちは、誰のものと決められたウサギやバナナの絵をヒントにして名前を「読んで」いるのでしょう。
エッ、それでは文字を読んだことにならない?まあ焦らずに次の話を聞いてください。

研究所に滞在中のことです。「ベターベイビー」(研究所の英才教育のコース)を紹介する報道番組を録画したビデオを見たことがあります。それはビッツ*のデモンストレーション場面で、お座りをした1歳前後の赤ちゃんが母親の差し出す2枚のカードのうち、正解のカードを手でさわっているのです。すごい速さで次から次へと。私にはちんぷんかんぷんのビッツを小さな赤ちゃんが理解している!それは誰もが驚くであろう場面でした。
*正式名称は「BITS OF INTELLIGENCE」。幼児教育の世界では「フラッシュカード」と呼ばれています。
しかし、このゲームにはちょっとした「仕掛け」がありました。カメラはスローモーションで母親が、一瞬、指で正解のカードを指すところを映し出していました。つまり、強力なヒントを与えていたわけです。
誤解してほしくないのですが、ビッツをけなしているつもりはありません。母親と赤ちゃんは実に楽しそうにやっていたし、目にも留まらぬ早業を見抜く赤ちゃんをたいしたものだとほめることもできるでしょう。そして、いずれは、一切のヒントなしに、絵や写真を見分けるようになる可能性もあります。
逆の事態を考えてみましょう。もし赤ちゃんがビッツを見せられる度にいやがって泣いているとすれば、今後ビッツを通して何かを学んでゆくことはほとんど期待できません。

さて、名札のマークの話に戻ります。マークを薄くあるいは小さくしてゆき、完全に消してしまうことはできるのでしょうか。ヒント(弁別刺激)を少しずつ小さくしてゆく操作のことをフェイディングといいます。
健常なお子さんの場合、そのような細かな段階的手順を踏まなくても、何となく、いつの間にか文字だけで自分の名前だとわかる日が来ます。では脳障害児はどうか。この問題を考えるとき次の話を思い出します。
ある自閉症の子がお気に入りのタオルを手放せないという問題行動をもっていました。取り上げるとパニックを起こします。(汚いし臭いですから)困り果てたご家族は寝ている間に数ミリずつタオルをカットしていきました。お子さんはパニックを起こすこともなく、このフェイディングは大成功しました。ただし、最後の一片の布切れだけは手放せなかったということです。できすぎの話のようにも思いますが、しかし、それに近い話は十分あり得るでしょう。
最後の最後で完全にフェイドアウトできるかどうかは、学習の連続から必ず帰結するものではなく、情報処理の戦略の転換という「ジャンプ」によるのだと思います。

抗けいれん剤

本論に先立ち、この問題に関する当室のポリシーを明記します。
1.抗ケイレン剤の処方は医療行為であり、研究所の見解を安易に親に紹介し、薬の服用を批判するような言動は厳に慎まなければならない。
2.薬には「定常状態」(薬の血中濃度が一定期間で平衡状態になること)があり、医師はその時点でこどもの状態を再チェックする。したがって親が子どもに薬を飲ませたり飲ませなかったりすることも断じて支持するべきでない。
3.親から「眠ってばかりいて心配だ」等の相談を受けた際には、医師の処方に従う必要性を説明したうえで、子どもの生活状況をしっかりとメモしたものを持参して医師と相談するようアドバイスする。

かつてある教授(医師)に研究所の発作および抗けいれん剤についての所見を紹介し、教えを乞うたことがあります。先生はまず「類は友を呼ぶ」と感想を述べられました。

抗けいれん剤については、「絶対飲むべき」から反対に「飲むべきではない」まで、幅広い考え方があります。今日の多くの医師は、二次災害の心配の少ない脳障害児に対しては、だいたい真ん中辺、つまり「発作を押さえるには飲んだ方がいいだろうが、最終的には親御さんが決定することです」という考え方ではないかと思います。
薬を飲ませたくないと考えるご家族には共通点があるようです。
・薬についてマイナスのイメージが強い。
・お子さんを24時間ケアできる。
そうしたご家族は、自分の希望や生活スタイルに沿った「飲むべきではない」と主張するところを探すでしょう。先生は、理屈の裏にあるそうした事情について「類は友を呼ぶ」と喝破されたわけです。
どんな薬にも副作用があるわけで、成長の途上であるお子さんに対して、長期間薬を服用させることを不安に思う親御さんの気持ちもよく分かります。特に難治性の発作の場合、薬の処方も難しいのでしょう、なかなか親御さんの期待する結果が得られず、眠気など副作用ばかりが目についてしまうということがあるようです。また、医師側の説明が一方的であったり、十分ではないと感じることもあります。
しかし、抗けいれん剤により、てんかんと上手くつきあいながら立派に社会生活を送っている人が多々いるということも忘れてはいけません。私の小さい頃は道ばたでひっくり返ってしまった人がいたそうです。今はそういう話はほとんど聞きません。それは薬と治療の進歩によるところでしょう。抗けいれん剤は決して「悪者」ではありません。
当室の指導事例のなかにも医師の了解のもとで抗けいれん剤を飲ませないという選択をされているご家族もいます。細心の健康管理と発作の際の適切な対応が必要です。ご家族の努力に頭が下がりますが、同時に、そういうやり方がいつまで可能かという問題も提起しておきたいと思います。いずれお子さんは家庭から、学校、社会へと生活の場を広げてゆきます。お子さんが社会生活を送るとき、発作の問題に家族だけで対応できるでしょうか。例えば、学校で発作が起きたとき、いつものようにこうしてくださいと先生に頼めますか。ご家族がいつでも駆けつけることができる場で待機しますか。他人が安心してお子さんといっしょにいられることを考えなければならないときがきます。
恐らく、この問題にご家族の希望を全て満足させる満点の答えはないのだろうと思います。こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てればこちらが立たずという問題なのだと。親御さんはいろいろな問題と向き合いながらベターな解決策を探って行くしかありません。落ち着くには時間がかかる問題ともいえます。
ご家族は信頼できる医師を(できれば身近に)探し、その信頼関係を築いていく努力をするべきでしょう。もちろん医師側にもご家族の希望や不安に真摯に耳を傾ける態度が求められます。先の先生もこの問題は患者さんとの話し合いが第一であるといっていました。これが発作および薬の問題で最も大切なことだろうと思います。

なお、意識が戻らないまま大発作を何回も繰り返す状態はたいへん危険です。重延(重積)発作の場合、脳が傷つき、機能の大幅な後退や、最悪の場合、致命的な損傷を被る可能性があると考えます。このような事態が生じた際には、速やかに発作を止めるべきです。

強化について 3

親御さんが犯しやすいまちがいを追加しましょう。
メッタやたらにほめる型…常時ほめている。かわいさのあまり(?)お子さんが何をしてもいちいちほめる。何をほめているのか分からない。結局、特に何も強化していないことと同じでしょう。祖父母によく見られる。

この型は、2つの大切な問題を含んでいます。つまり「何を」「いつ」強化するのかという問題です。プログラムは「次へ」を目指すものですから「次へ」つながる行動を強化するべきです。逆に、全ての望ましい行動を一つ一つ強化するわけにはいきません。
これは私たちが子育てにおいて自然に行っていることです。
例えば、
・歩き始めたときは一歩一歩喜ぶが、そのうち2,3歩歩くだけでは喜ばない。たまたまバランスよく数メートル歩いたときに大喜びする。
・喃語を話し始めたときは繰り返し「アババー」とかいって親ばかするが、そのうち喃語だけでは喜ばない。たまたま適切な場面で「ママー」といったときに「ママっていったわ」と大喜びする。
つまり、獲得されつつある行動は念入りに(1回ごとに)強化するが、すでにできるようになった行動は時々強化しているということです。
いったん生起率が上がった(学習が定着した)行動は、その後ときどき強化されることによって、生起率が高い水準で維持し消去しにくいということがあります。このことはパチンコや釣りを思い浮かべてみると理解できるでしょう。たまに勝つから、たまに大きいのが釣れるから、また行きたくなってしまいます(笑)。
メッタやたらにほめる型にならないためには、目標を理解し、意識していることが大切です。プロフィールとチェックリストはそのためにあります。具体的にいえば、プロフィール上のF(ファンクショナル)がついている段階の行動は1回ごとに強化するべきであり、クリアーした段階の行動は間歇強化に移るべきです。チェックリストの×や△のついた項目の行動は連続して強化するべきであり、○がついた(十分定着した)行動はときどき強化すればよいのです。

最後に、決しておじいちゃんおばあちゃんをバカにしているつもりはありません。何でもほめてくれる人がいることはお子さんにとってありがたいことです。それも大切な役割だろうと思います。

遊びってなんだろな〜

 子どもにとって遊びが重要であることに異論を挟む人はいないでしょう。では、遊びとは何かというと、なかなか難しい問題です。古くから哲学、心理学のテーマであり、その意味や役割について様々に論じられてきました。
 心理学における一般的な理解を紹介します。
「遊びは、生存のための現実的適応的行動や、他の目的のための手段的・道具的な仕事や勉強、労働とは区分される非効用的非生産的な余分な行動で、行動自体の楽しみのための自由で自発的な行動である」(1996 発達心理学辞典 ミネルヴァ書房)
 ウ〜ン、そんなところかなと思いますが、よく読むと引っかかるところがあります。「…行動や、…行動で、…行動である」と客観的な行動として捉えようとしている反面、「楽しみのための」「自由で」「自発的な」というのは遊ぶ側の主観的な心の持ちようです。なぜこのような表現になるのでしょうか。
 次の問題をお考えください。遊びの定義が一筋縄ではいかないことがわかります。
「10ヶ月の赤ちゃんがボールや積み木をポンポン投げています。さて赤ちゃんは何をしているのでしょうか。何をしていると思っているのでしょうか」
 上記の定義は行動主義の強い影響と旧来の哲学や他の立場からの反論や批判とのせめぎ合い、妥協の産物といえるかもしれません。いずれにせよ、遊びをめぐって多様な論議があることは、遊びが人間にとって本質的なテーマであることを示しているでしょう。
 遊びというと思い出す質問があります。「車いすで移動中右に倒れます。主人は遊んでいるのではないかというのですが…」というもので、母親としては「正直な所、どこを歩いても人にじろじろ見られるので、なおしてやりたいと思っています」とのことでした。お子さんは移動運動に重篤な障害を持つお子さんですから恐らく前庭刺激を誘因とする異常な姿勢反射と思われます。しかし、遊びではないと否定できるかというと…。
 私たちは10ヶ月の赤ちゃんが楽しそうにモノを投げている様子を見ると「遊んでいる」と思います。そして「いっしょにやろうかな」「しばらく様子を見守ろうかな」「大切なモノだから止めさせよう」などと判断するでしょう。つまり子どもが「遊んでいる」と見ることは今後関わりを持とうとするときの出発点となる、大人側の「気分」や「態度」だと言えるでしょう。
 以前通信62号で触れたように、私はヒトは中枢神経系の過剰性を持っているという考え方が好きで、その過剰性ゆえに余計なことをするものなのだと思っています。余計なことを遊びと言い換えれば、ホイジンガの言うとおり、ヒトは「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人の意)」(1938)であり、文学や芸術など人間の文化的所産はすべて遊びだと思います。
 その余計なことをすべて認めるわけにはいかないので、人間社会はそこにルールや約束事を加えていくことになります。その際、大人が子どもに示す態度の1つが遊びでしょう。遊びを通して、大人は子どもに人間関係や世の中の事情やルールなどを教えます。逆に言えば、子どもは大人との遊びから実に多くのことを学ぶのでしょう。
 大人より子どもの方がよく遊ぶのは、子どもの方が過剰性がより大きいからだと思います。我が身を振り返ってみても、子どもが仕事などやるべきことが少ないから遊びに集中するという説には賛成できません。遊び盛りの子どもにまじめにつきあおうとしたらたいへんです。精神的・肉体的にとてもついていけません。
 複数の保育士さんから聞いたのですが、最年長組の1つ下のクラスが一番騒々しくて、最年長になると行動に落ち着きが出てくるとのことです。二男一女の父親としての私見を加えると、女子より男子の方がずっとうるさいと思いますね(笑)。
 さて、遊びとプログラムの関係は当室にとって重要な問題の1つです。遊びが子どもにとって非常に大切なものであるならば、プログラムは遊びと強く対立するものであってはならないはずです。IPAというユネスコの諮問団体による「子どもの遊ぶ権利宣言」(1977)のように、子どもの遊びを尊重することは今日の社会的要請でもあります。
 遊びの本質は大人の子どもに向き合う態度であるという観点に立てば、プログラムと遊びは直接的に対立するものではないといえそうです。ただし、プログラムは学習を促す強い働きかけですから、どうしても訓練的な態度が強くなってしまうかもしれません。その点は指導する側としても十分な注意が求められると自覚しています。
 第1期用パンフレットに一番大切なことは「明るく楽しく行うこと」と書きました。いわば遊び心を大切にして欲しいということです。とはいっても、人間ですから疲れてしまうこともあるでしょう。遊びには心身の余裕が必要です。そんなときは思い切って休息を取り、エネルギーを充填して、お子さんといっしょに徹底的に遊んでみてはいかがでしょうか。当室のハネムーンはそのためのシステムです。

□参考文献
「遊びという謎」 麻生武+綿巻徹 編
シリーズ/発達と障害を探る(第2巻) 1998年発行 ミネルヴァ書房

ビッツを再考する

□絵カードの合格率
 田中ビネー知能検査からビッツに近い設問を探すと15枚の絵カードを使った「語い」があります。「飛行機」「手」「家」などのカードを見せて「これは何ですか」という質問に正しく答えられるかをチェックします(判定では「ひこうち」など幼児音は正答だが「ブンブン」など幼児語は誤答となる)。
表1に「語い」について1歳代から3歳代の合格率を示します(田中教育研究所編 1987 田研出版)。
<表1 省略>
 やはり、語いが急速に増える2歳代に合格率が跳ね上がっています。

□忘却曲線
 15枚のカードは子どもがよく知っていそうなものなのですが、実際に検査をしてみると気付くことがあります。女の子にとって「ピストル」のように「この子にとっては馴染みがないのだろうな」と思えるカードは答えが出にくい。子どもの言葉や知識は生活のなかで育まれてゆくということでしょう。
エビングハウスの忘却(保持)曲線(1885)というものがあります。彼は子音+母音+子音の3字からなる無意味綴りを使って実験をし、記憶(保持)が時間の関数であることを示しました。結論を少々乱暴に言えば、無意味綴りの記憶(意味記憶であり、機械的記憶といえます)は、私たちが学生時代試験前の一夜漬けで経験したように、一日も経てばほとんど忘れてしまいます(表2)。
<表2 省略>
 こうした事実から推測すると、ビッツで星座や中世の名画など(小さなお子さんにとって無意味綴りとほぼ同じでしょう)を見せることはどうかなと思います。結局、たとえ記銘できたとしても、生活のなかで繰り返し「インプット−アウトプット」しない限り忘れてしまうと考えられます。
 ただし、表2をよく見れば分かるように(節約率は決して0になっていない)、忘れることは全くナッシングになることではないともいえるのですが…。
 なお、機械的記憶は一度に集中して行うよりも適当な時間的間隔を空けるやり方(分散学習)の方が効果的です。これも私たちが英単語の暗記の際に経験したことでしょう。

□カードの枚数
 私はお子さんの身の回りのモノを題材にして100枚程度作れば十分だと思います。最初は是非、家族の写真を使ったカードを手作りして欲しいと思いますが、その後は市販のカードを上手に利用してもよいでしょう。作ったカードはカテゴリー(組み合わせ)を工夫したりして何度も繰り返し見せてください。最終的に「これは何ですか」に答えられれば卒業ですが、そこに至るまでにもいろいろな課題をお子さんに応じて設定できます。
例えば、
・コミュニケーションを楽しむ
・注意など学習の構えの形成
・写真や絵の視覚的弁別
・指差しや発語の強化
などです。
 最も貴重なことは親御さんが何らかの手応えをつかんで「この子は学べる」という希望と自信をつかむことかもしれません。それはお子さんが自信を持つことでもあります。
 ビッツは優れた教具(遊び道具)の1つだと思いますが、作成に費やす手間と時間を考えると何万枚も作るべきものとは思えません。お子さんが学ぶべきことは他にたくさんあります。

□手応え
 最初の手応えは「よく見るよく聴く」です。これができれば後は時間の問題といってよいくらいです。逆に、「見てくれない聴いてくれない」は記銘−保持の失敗と考えられるでしょう。
 そのうちお子さんはカードに手を伸ばしたり、親御さんの口調に合わせて「アーウー」言ったりし始めます。お子さんなりの再生や再認をしていると考えてよいと思います。まだ「どっち?」の質問に正確に答えることはできないかもしれません。理屈を言えば、新旧の学習が影響して再生を失敗させているのかもしれません。例えばこんなこともあるでしょう。
「2枚のカードを並べて『熊はどっち』と聞くとぬいぐるみの熊を持ってきました」
ハハハ、おおいにお楽しみください。

□やり方こそが重要
 改めてビッツの長所を考えてみると、絵本を漫然と読み聞かせるなどと比べて、オペラント学習の形を取りやすく、また認知論の立場からは情報処理の負荷を軽減する工夫がなされているといえます。
 そう考えるとカードのできばえや枚数もさることながら、やり方が非常に重要だということになります。ご報告のビデオを見て上手にやってるなあと思う場合は、そこに「弁別刺激(カードの提示)−行動(見る、発語など)−強化刺激(誉めるなど)」が明らかに見て取れます。逆に「ウ〜ン、…」という場合は、お子さんが注意を向けていない(弁別刺激の失敗)、強化がハッキリしない(親御さんが強化しているつもりであるかは問題ではない。お子さんが強化されているかです)というように、形になっていません。
 カード作りにおける諸注意は、お子さんの情報処理の負荷をなるべく軽減する工夫です。そうした配慮は当然、やり方にも反映されるべきです。例えば、お子さんの注意を妨げるような「雑音」はないだろうか。外部の環境だけでなく、お子さんの状態はどうか。機嫌が悪い、眠い、空腹、無理な姿勢などはお子さんの注意力を下げるでしょう。

□カードの再利用
 心を込めて作ったカードですからおおいに再利用してください。実物とカードを照合したり、ちょっと難しいですが、複数のカテゴリーのカードを混ぜて「仲間探し」をします。「神経衰弱」もできますし、数枚のカードをお子さんと一緒にいろいろな場所に隠して10数えてから探し出すというゲームもありますね。他に楽しいゲームを見つけたら是非お知らせください。
 また、お手伝いの前にビッツで手順や予備知識を教えておくという手があるでしょうし、自閉症のお子さんが知らないところへ出かける際、事前にビッツでどこへ出かけ何をするかを教えておくと安心するという使い方もあります。

□ビッツの先
 視覚情報の処理という観点からは記号や文字の理解へと進みます。知識という観点からはPOI(ピーオーアイ)といって、まとまりを持つ知識(文章)を教えます。いわゆる専門家は(他の分野では普通だが)その分野では膨大かつ階層的な知識を持つ人たちといえます。長年の学習の積み重ねが専門的知識・動き・思考を作るのでしょう。
 しかしながら、すべての脳障害児がそうした段階へ進めるわけではありません。重篤な知的障害をもつお子さんの場合、まずカードを利用したコミュニケーションの充実を目指すべきでしょう。たとえ数枚でもお子さんが「自発的に有意味に」使えれば、生活はぐっと豊かなものになると思います。

書評 「心の専門家」はいらない

小沢牧子 著
洋泉社新書 2002年 700円
 昨年最大のベストセラーである「バカの壁」(養老孟司 新潮新書)は12月9日232万部を超して、教養系の新書として最大部数を記録したそうです。「流行語大賞」にもなりました。
 読んでみると縦横無尽に養老節炸裂!という感じで確かに面白いですが、「現代人がいかに考えないままに、己の周囲に壁を作っているか。そもそもいつの間にか大事なことを考えなくなってしまっていることを指摘して」一元論はダメですよ、と至極真っ当なことを述べているだけともいえます。
 興味深いのはなぜこの本が大ベストセラーになったのかという点です。もちろん内容に共感して買ったという人もいるでしょうが、普通読んでから本を買うという人は少ないでしょうから、「バカの壁」という題名(ネーミング)や帯に書かれた「話せばわかるなんて大うそ!」というキャッチコピーに惹かれて手に取った人が多いんじゃないかしら。旧来の共同体の崩壊が進行していくなかで、多くの家庭で、学校で、職場で、地域で、コミュニケーションの軋轢が生じています。「あいつは何を考えているのかわからん」と、コミュニケーションに悩んでいる人が非常に多いのだろうと思います。
 コミュニケーションはお互いが努力して積み重ねてゆくものです。ときとして面倒なものであり、こちらの真意が伝わらないこともあるし、誤解されることもある。そうした点を引き受けた上で、それでもお互い理解し合おうとするのがコミュニケーションの本質だと思います。「バカの壁」といういい方は斜に構えてコミュニケーションを始めから諦めるような響きがある。そこらへんが売れた理由ではないかしら。
 さて、紹介したい本は全く別の新書です。私は個人的にも仕事上でも「心は<私>のものであり、操作されたくないし、操作したくない(できない)」を信条としています。
 97年神戸の事件を契機に当時の文部大臣が「心の教育が必要だ」と口走った。新聞を始めとするマスコミはこぞってそれを支持・後押しするようなキャンペーンを張りました。「心の教育」の大合唱の結果、今何が残っているでしょうか。
 一時の過熱ぶりは影を潜めたものの、少年事件が起こるたびに「心の教育」「心のケア」が声高に叫ばれる風潮があります。「心の○○」はすっかり市民権を得たといえるかもしれません。
 筆者は長年臨床心理学を研究し、カウンセリングも担当した「心の専門家」です(現在の専攻は自ら臨床心理学論といっています)。その専門家が「心の専門家はいらない」と主張しています。
 人間は誰しも自分の立場に染まっていくわけで、いわば「自己否定」していく過程は相当しんどかっただろうなと思いますが、そこら辺は序章としてさらっと流して、第1章「現代社会とカウンセリング願望」、第2章「『心の専門家』の仕事とその問題群」、第3章「スクールカウンセリングのゆくえ」、第4章「『心のケア』を問う」と、まさに臨床心理学論としてたいへん読み応えのある内容です。
 筆者の批判は、複雑な社会システムのなかで生じている問題を心理上の、つまり個人の問題に(極端に)還元して解決しようとするのはおかしい、ということです。例えば、カウンセラーが不登校の生徒を「治して」再登校させることが本当に問題を解決したことになるのか。文部科学省の発表(平成15年度学校基本調査速報)でも不登校は小学校・中学校合わせて13万人以上という数字を見れば、それは明らかに個人ではなく、教育や社会システムの問題であるはずです。
 最終章では、こうした「現在の日本社会で進行する孤立不干渉の原理と、個人の内面に問題を還元する心理主義の蔓延」という状況を打破するために、伝統的な「縁」(袖すり合うも何かの縁のエンです)という思想の復権を提言しています。
 「バカの壁」も「心の専門家はいらない」も筆者の言いたいことは、たいへんだけど面倒がらずにもう少しコミュニケーションを作っていこうよ、と受けとめました。ハイ、それしかない、賛成です。